わらじワールド
コロラド在住の写真家のブログ
2008年7月アメリカ中西部撮影ツアー
CO_RIVER 07-14-08_1 7月10日〜16日までの7日間の撮影ツアーを実施することができました。参加下さった方は7名で40代〜70代の皆様でした。時差ぼけや飛行機移動での疲れは全く見られず、参加者の気力と感性の素晴らしさに圧倒される思いの数日を送らせてもらいました。

 アメリカ中西部の大自然はコロラドの大砂丘から始まり、ロッキー山脈の雄大さに酔いながら中西部の砂漠地帯をさまようようにして撮影させてもらい移動しました。赤岩の林立する神々の庭、モニュメントバレー、アーチズ国立公園はじめ、侵食美の素晴らしいキャニオンランズ国立公園とデッドホースポイント州立公園。アナサジインディアンの居住跡が保護されているメサベルデ国立公園など、中西部の見所の幾つかを紹介することができました。

 走行約2700キロ。大陸ならではの移動距離です。モニュメントバレーの夕暮れに酔いしれた後に食べた500グラムのリブアイステーキ。ライブバンドのウエスタンを聞きながらのワイルドな夜も忘れられません。そして暗いうちに向かい、夜明けを拝ませてもらったメサアーチの日の出。様々な思い出が参加者の皆さんの脳裏に鮮明に焼きついていることと思います。

 私も自分の役割が明確にみえてきたように思えたコーディネートでした。有難い人との出会い、そして貴重な時間を伴に過ごせる慶びを感じています。
写真の芸術としての価値そして文化としての存在
 アメリカで初めて写真をギャラリー展示して販売していると聞くギャラリーに足を運んだ。以前から名前は聞いていたし、近くを通ったことはあったが寄る機会がなかったし、寄る理由がなかった。今まで寄らなかったのは、寄る気がなかったというよりも、どんなところか全く検討もつかずに他のプライオリティーに追われていて心の余裕がなかったというのが正直なところである。

061908GSDsunset2.jpg 昨年写真展を東京と名古屋のフジフォトサロンで開かせて頂き、今年の春に風景写真社から写真集「大砂丘の声」を自費出版することができたが、今日までの様々な経験の中から写真というものに対する考えがかなり強く頑固なものになってきている気がしていた。

 それは写真に対する芸術的な評価というもの。これは技術の発達により「誰にでもできる」ものになっている普遍性というものの影響があるのと、物に恵まれすぎている人間社会に生きる人々の心理的な領域まで入り込んでいるものが原因となっていると思う。写真というものはある程度の知識といいレンズがあれば、ある程度のものは撮れる。

 このギャラリーで開かれていたある写真家の作品は20点前後。ギャラリーのオーナーは年老いた「癖のある」親父だが、銀塩プリント(シルバークロームと表現していた)らしい作品を見ている私を、最初は怪しげにみていた。どこの東洋人(東洋人に見られていたとい前提だが)か、という意味ではなくて、こいつは写真をどうとらえて見ているのか、というような好奇心と疑いを混ぜ合わせたようなものだったと思う。

 最近あるプロが作った最新のデジタル作品があるという。1Mx.5M位の縦型のパネルがあった。絵に見える。写真には見えない、全く違った画像が目の前にあった。写真を撮ったというよりも画像を作ったという感じの見事な鮮明さと鮮やかさが目に刺さるようにして入ってきた。親父が言う。「どうだい、これをみて。」私は正直に言った。「綺麗な作品ですが、私には写真としては受け入れることができません。」

 彼がわずかに微笑んだのが感じられた。どういう意味かは分からない。しかし、私にはその巨大な、45000ドルもかかる大判デジタル機材を投入して「撮影」した作品より、壁一面に飾られているモノクロの作品群、綺麗にアーカイブとして整頓されているモノクロ写真作品の方が魅力的だった。よくみていると、どこかでみたような作品が少なくない。値段はかなりのものになるが、アンセル・アダムス、マイケル・ケナ、そして写真家の名前は分からないな「ライフ」誌に掲載されていた記憶があるとんでもない歴史的なショットの原版(の一枚)である作品があったのに驚いた。

 写真は文化である。それは単に映像を捉えるだけではないからだと思う。その時の状況に含まれるエネルギーや感情、歴史、時には音なども捉えることができる人間の五感+に通じる何かを持っているからだと思う。それら作品が撮影された頃の撮影条件、撮影場所の状況を考えた。いいレンズは当時もあっただろうが、オート機能はなかった。三脚もアルミやカーボン製のものではなく、カメラは重く、レンズは当然重かった。道路状況も今ほどでなく、そこを走る車でさえ今のようなスピードで走れなかったであろう。撮影場所によっては岩場を歩いたかもしれない、砂地を歩いたかもしれない。そんな条件下で捉えた画像には、言葉では表現できない迫力がある。

 私は、写真というものの力というのはその「迫力」であると思う。自然を撮影する場合は大地のエネルギーであり「声」であると思う。それを先人が捉えることができたのは、技術による機材の力だけではなく、撮影者たちのソフトな部分が被写体に通じていたかのように思える説得力のある、しかしながら、技術が隠しうる、我々の潜在的な域に存在する大切なものによると信じている。

 撮影に制約をつけられる。または、制約のある中で撮影をする。この点で考えてみると面白いかもしれない。
砂漠のサボテンたち
061908GSD12.jpg まだ昨年の草が枯れたままの状態で黄色いサンドシート地域は砂漠といっても植物が生息できる限られたスペース。6月も末に入ろうとするこの時期には根元から新しい緑の葉が伸び始めている。そしてそれら多年草が葉を大きく広げる前に花を咲かせ始めているサボテンたちの姿が印象的だった。

 植物がやっと根をはれる地域は多くの種類が群生、共存しているが、その中でも砂漠にふさわしいアダプテーションをしているのがサボテンたちである。とげを体中に張り巡らしている姿。長いとげや短いとげ。太いとげや毛のように細かいとげ。コロラド南部のサボテンたちの背丈はそれほど高くなく、地面(砂面)に広がるようなものが多い。背丈はせいぜい砂面から20センチ位あれば高いほうであろうか。同じ砂漠地帯でも、

 コロラドよりも南西部に位置するアリゾナ州などには背丈が4〜5メートルにもなる巨大なものもある。またのっぽでないものでも丸太のような塊にもみえるサボテンさえある。土地それぞれの土壌(砂の成分)や気候がもたらす水分、気温、日照条件などが、それぞれの形体や大きさを決めさえているのだろう。

061908GSD13.jpg これらサボテンたちも、他の野草たちと同様に開花の時期が、暗黙の了解で決められているかのようにあるらしい。この左のサボテンは既に花をほぼ咲き終えているが左下と右上のサボテンはこれからが開花の時期になる。色、形、大きさもそれぞれで、地味ではあるが見ていると楽しくなる。

 この左のサボテンは石の間などに生えている小さなもので、足場を気をつけないと踏みつけてしまうくらいだが、他のものは石のない砂地でも群生しながらはえている。限られた雨量や露からの水の補給をそれぞれ管理しながら地道に生きている。

061908GSD14.jpg 砂漠というとどうも生き物がいないように思われるが、これらサボテンが開花する時期には虫も増え始める。蚊や虻、蚋という人間が入り込むと容赦なく血を吸いに集まる連中も多いが、献血はともかくも、残していくあの毒には閉口する。痒くて、痛い。特に蚋に刺されたものは1ヶ月しても跡が消えない。

 虫が増えるということは、それらを食べる他の虫や鳥が集まる。そして野草の葉や実を食べる哺乳動物とそれらを捕食する猛禽類や肉食の小動物たち。砂漠地帯であっても近くの森からミュール鹿やエルク大鹿が訪れて草を食べる。高原の平原地帯に生息するプログホーンたちも訪れる。

 砂漠というと死の世界と先入観を持っている人が少なくないが、季節を通じて様々なドラマが繰り広げられている。

 それにしても湿度が一桁%で風があり、紫外線が強い日射がある。水をどれだけ持って行っても脱水状態になる気候。虫除けクリームを塗っても刺してくる虫たち。三脚を担ぐ手の平の皮がかさかさになり、白く粉吹き芋のようになる関節部分の皺。私には過酷な環境なのかもしれないが、写真撮影という魅力とともに、何度痛い(痒い?)思いをしても行きたくなるのは、いつ行っても何かを見せてくれるという期待があるからであり、また写真を撮らせてもらえる楽しみ、そして何よりも自然と接することによって得られるエネルギーの有難さを強く認識しているからだろう。

 過酷な条件。この「条件」が五感を研ぎ澄まさせてくれる。私にとっては、この過酷な砂漠地帯が写真というものを通して自然と交わる接点を与え続けてくれている。
見下ろす景色
 5月初めに西海岸に向かう飛行機から見下ろしたデンバー首都圏南部。なんと我が家が見える。何メートルくらいの高さから見下ろしているのだろうか。ほんの数秒目がとまっただけだったが、昇り始めた朝日に照らされ始めている状況が上空から見下ろすことができた。SKY050308_1.jpg

 人工260万人ほどの首都圏のほんの一部をみることができただけなのに、なんだか自分の住んでいるところが小さくみえた。それでも飛行機が西に向かうにつれてロッキー山脈の麓に近づいていくと家の数は少なくなり、麓から山岳部に入っていくと、なんとか大きな道が見える程度になっていく。見下ろしながら、あの道はハイウエイ何番だな、とか分かる。山々が同じような顔つきで見えてくる中でも、ふと目を引く表情があった。それは夏になるとシロイワヤギを撮影に登るマウントエバンス。標高約4300メートルある北米一高い所まで舗装道路が走っている山として知られている。

 希薄な空気を思い出させる景色。山頂に向かう道が見えるが真っ白。まだ除雪はされていない。山頂下にあるサミットレークとそれを削りだしている侵食がみてとれる。EVANS050308_2.jpg朝日を浴びて輝いている山肌。今年も来いよ、と読んでいるかのように見えていた。昨年生まれたシロイワヤギの子ども達は無事に越冬をしてくれただろうか。今年も会えるだろうか。そして、今年生まれる子ども達は元気に生まれてくるだろうか。様々な思いがよぎる。

 大自然との接点とは、どこにでもあるような気がする。現代の技術が普及する生活環境の中でもみつかる。それはどんなに人間が進歩しても、人間は自然の中に存在する生き物の一つに過ぎないからだ。そういう考えを自然は常に再認識するようにチャンスを与え続けてくれている。

 有難きかな。空からの眺めが幸せを呼んでくれる一つの窓口のようにさえ思えてきた。
夏の始まり
pelican053008B.jpg 不安定な天候が続いていた5月に終わりを告げるかのように初夏の暑さを感じる天気が始まりました。とは言ってもコロラドは6月は雷雨の多い月。夏の天候としては過激な雷やどしゃぶり、そして雹や竜巻なども平野部では発生することがあります。でも、そんな季節の良さは「雲」たちの暴れぶりかなあ。

 青空で雲ひとつない日は写真撮影にはつまんない静かな情景になります。雲がブルースカイをキャンバスにして躍動感豊かに動き回る時、撮影時の構図に動きを与えてくれたり、光の強弱を活かしてくれたりします。

 いつものごとくサンルイスバレーに出向いた時、砂漠地帯にある湖でペリカンの群れに会いました。標高2,300mほどの高地ですが渡り鳥のアメリカン・ホワイト・ペリカンはやってきます。背景のサングレ・デ・クリスト山系を背にしてなんとものどかな光景。しかし、この湖の周りは砂地の荒野。つまり砂漠地帯なんです。不思議な感じもしますが、そんな環境でありながらも動植物は順応性を持って生きているということに感動します。

pelican053008A.jpg  山の麓にかすかに見えるのは我がホームグランドである撮影地、グレイト・サンド・デューンズ(大砂丘)です。いつ訪れても何かを魅せてくれる大自然の暖かさを感じます。何年通っても飽きない偉大さ、そして多様性を持った風景の中の命と変化が魅力。今日はどんなものを魅せてくれるのだろうと、いつも楽しみに足を向ける場所を与えられたことに感謝しながら、今年も自分の写真を通してできる役割を求め砂地を歩きます。

これからの砂漠地帯は雷雲に気をつけないと命取りになりかねません。何しろ自分自身が突起物になりますから、避雷針ではなく落雷ポイントとして目立ってしまうようなところ。気を張って空の様子を伺いながら、風を読み、雲の流れと相談しながらポイントを探して撮影する季節。これもまあ撮影の醍醐味なのでしょうね。

 制約を避けるのではなく、制約を受け入れることによって研ぎ澄まされる「気」は撮影にも生かされています。


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