7月10日〜16日までの7日間の撮影ツアーを実施することができました。参加下さった方は7名で40代〜70代の皆様でした。時差ぼけや飛行機移動での疲れは全く見られず、参加者の気力と感性の素晴らしさに圧倒される思いの数日を送らせてもらいました。アメリカ中西部の大自然はコロラドの大砂丘から始まり、ロッキー山脈の雄大さに酔いながら中西部の砂漠地帯をさまようようにして撮影させてもらい移動しました。赤岩の林立する神々の庭、モニュメントバレー、アーチズ国立公園はじめ、侵食美の素晴らしいキャニオンランズ国立公園とデッドホースポイント州立公園。アナサジインディアンの居住跡が保護されているメサベルデ国立公園など、中西部の見所の幾つかを紹介することができました。
走行約2700キロ。大陸ならではの移動距離です。モニュメントバレーの夕暮れに酔いしれた後に食べた500グラムのリブアイステーキ。ライブバンドのウエスタンを聞きながらのワイルドな夜も忘れられません。そして暗いうちに向かい、夜明けを拝ませてもらったメサアーチの日の出。様々な思い出が参加者の皆さんの脳裏に鮮明に焼きついていることと思います。
私も自分の役割が明確にみえてきたように思えたコーディネートでした。有難い人との出会い、そして貴重な時間を伴に過ごせる慶びを感じています。
アメリカで初めて写真をギャラリー展示して販売していると聞くギャラリーに足を運んだ。以前から名前は聞いていたし、近くを通ったことはあったが寄る機会がなかったし、寄る理由がなかった。今まで寄らなかったのは、寄る気がなかったというよりも、どんなところか全く検討もつかずに他のプライオリティーに追われていて心の余裕がなかったというのが正直なところである。
昨年写真展を東京と名古屋のフジフォトサロンで開かせて頂き、今年の春に風景写真社から写真集「大砂丘の声」を自費出版することができたが、今日までの様々な経験の中から写真というものに対する考えがかなり強く頑固なものになってきている気がしていた。
それは写真に対する芸術的な評価というもの。これは技術の発達により「誰にでもできる」ものになっている普遍性というものの影響があるのと、物に恵まれすぎている人間社会に生きる人々の心理的な領域まで入り込んでいるものが原因となっていると思う。写真というものはある程度の知識といいレンズがあれば、ある程度のものは撮れる。
このギャラリーで開かれていたある写真家の作品は20点前後。ギャラリーのオーナーは年老いた「癖のある」親父だが、銀塩プリント(シルバークロームと表現していた)らしい作品を見ている私を、最初は怪しげにみていた。どこの東洋人(東洋人に見られていたとい前提だが)か、という意味ではなくて、こいつは写真をどうとらえて見ているのか、というような好奇心と疑いを混ぜ合わせたようなものだったと思う。
最近あるプロが作った最新のデジタル作品があるという。1Mx.5M位の縦型のパネルがあった。絵に見える。写真には見えない、全く違った画像が目の前にあった。写真を撮ったというよりも画像を作ったという感じの見事な鮮明さと鮮やかさが目に刺さるようにして入ってきた。親父が言う。「どうだい、これをみて。」私は正直に言った。「綺麗な作品ですが、私には写真としては受け入れることができません。」
彼がわずかに微笑んだのが感じられた。どういう意味かは分からない。しかし、私にはその巨大な、45000ドルもかかる大判デジタル機材を投入して「撮影」した作品より、壁一面に飾られているモノクロの作品群、綺麗にアーカイブとして整頓されているモノクロ写真作品の方が魅力的だった。よくみていると、どこかでみたような作品が少なくない。値段はかなりのものになるが、アンセル・アダムス、マイケル・ケナ、そして写真家の名前は分からないな「ライフ」誌に掲載されていた記憶があるとんでもない歴史的なショットの原版(の一枚)である作品があったのに驚いた。
写真は文化である。それは単に映像を捉えるだけではないからだと思う。その時の状況に含まれるエネルギーや感情、歴史、時には音なども捉えることができる人間の五感+に通じる何かを持っているからだと思う。それら作品が撮影された頃の撮影条件、撮影場所の状況を考えた。いいレンズは当時もあっただろうが、オート機能はなかった。三脚もアルミやカーボン製のものではなく、カメラは重く、レンズは当然重かった。道路状況も今ほどでなく、そこを走る車でさえ今のようなスピードで走れなかったであろう。撮影場所によっては岩場を歩いたかもしれない、砂地を歩いたかもしれない。そんな条件下で捉えた画像には、言葉では表現できない迫力がある。
私は、写真というものの力というのはその「迫力」であると思う。自然を撮影する場合は大地のエネルギーであり「声」であると思う。それを先人が捉えることができたのは、技術による機材の力だけではなく、撮影者たちのソフトな部分が被写体に通じていたかのように思える説得力のある、しかしながら、技術が隠しうる、我々の潜在的な域に存在する大切なものによると信じている。
撮影に制約をつけられる。または、制約のある中で撮影をする。この点で考えてみると面白いかもしれない。
昨年写真展を東京と名古屋のフジフォトサロンで開かせて頂き、今年の春に風景写真社から写真集「大砂丘の声」を自費出版することができたが、今日までの様々な経験の中から写真というものに対する考えがかなり強く頑固なものになってきている気がしていた。それは写真に対する芸術的な評価というもの。これは技術の発達により「誰にでもできる」ものになっている普遍性というものの影響があるのと、物に恵まれすぎている人間社会に生きる人々の心理的な領域まで入り込んでいるものが原因となっていると思う。写真というものはある程度の知識といいレンズがあれば、ある程度のものは撮れる。
このギャラリーで開かれていたある写真家の作品は20点前後。ギャラリーのオーナーは年老いた「癖のある」親父だが、銀塩プリント(シルバークロームと表現していた)らしい作品を見ている私を、最初は怪しげにみていた。どこの東洋人(東洋人に見られていたとい前提だが)か、という意味ではなくて、こいつは写真をどうとらえて見ているのか、というような好奇心と疑いを混ぜ合わせたようなものだったと思う。
最近あるプロが作った最新のデジタル作品があるという。1Mx.5M位の縦型のパネルがあった。絵に見える。写真には見えない、全く違った画像が目の前にあった。写真を撮ったというよりも画像を作ったという感じの見事な鮮明さと鮮やかさが目に刺さるようにして入ってきた。親父が言う。「どうだい、これをみて。」私は正直に言った。「綺麗な作品ですが、私には写真としては受け入れることができません。」
彼がわずかに微笑んだのが感じられた。どういう意味かは分からない。しかし、私にはその巨大な、45000ドルもかかる大判デジタル機材を投入して「撮影」した作品より、壁一面に飾られているモノクロの作品群、綺麗にアーカイブとして整頓されているモノクロ写真作品の方が魅力的だった。よくみていると、どこかでみたような作品が少なくない。値段はかなりのものになるが、アンセル・アダムス、マイケル・ケナ、そして写真家の名前は分からないな「ライフ」誌に掲載されていた記憶があるとんでもない歴史的なショットの原版(の一枚)である作品があったのに驚いた。
写真は文化である。それは単に映像を捉えるだけではないからだと思う。その時の状況に含まれるエネルギーや感情、歴史、時には音なども捉えることができる人間の五感+に通じる何かを持っているからだと思う。それら作品が撮影された頃の撮影条件、撮影場所の状況を考えた。いいレンズは当時もあっただろうが、オート機能はなかった。三脚もアルミやカーボン製のものではなく、カメラは重く、レンズは当然重かった。道路状況も今ほどでなく、そこを走る車でさえ今のようなスピードで走れなかったであろう。撮影場所によっては岩場を歩いたかもしれない、砂地を歩いたかもしれない。そんな条件下で捉えた画像には、言葉では表現できない迫力がある。
私は、写真というものの力というのはその「迫力」であると思う。自然を撮影する場合は大地のエネルギーであり「声」であると思う。それを先人が捉えることができたのは、技術による機材の力だけではなく、撮影者たちのソフトな部分が被写体に通じていたかのように思える説得力のある、しかしながら、技術が隠しうる、我々の潜在的な域に存在する大切なものによると信じている。
撮影に制約をつけられる。または、制約のある中で撮影をする。この点で考えてみると面白いかもしれない。
5月初めに西海岸に向かう飛行機から見下ろしたデンバー首都圏南部。なんと我が家が見える。何メートルくらいの高さから見下ろしているのだろうか。ほんの数秒目がとまっただけだったが、昇り始めた朝日に照らされ始めている状況が上空から見下ろすことができた。
人工260万人ほどの首都圏のほんの一部をみることができただけなのに、なんだか自分の住んでいるところが小さくみえた。それでも飛行機が西に向かうにつれてロッキー山脈の麓に近づいていくと家の数は少なくなり、麓から山岳部に入っていくと、なんとか大きな道が見える程度になっていく。見下ろしながら、あの道はハイウエイ何番だな、とか分かる。山々が同じような顔つきで見えてくる中でも、ふと目を引く表情があった。それは夏になるとシロイワヤギを撮影に登るマウントエバンス。標高約4300メートルある北米一高い所まで舗装道路が走っている山として知られている。
希薄な空気を思い出させる景色。山頂に向かう道が見えるが真っ白。まだ除雪はされていない。山頂下にあるサミットレークとそれを削りだしている侵食がみてとれる。
朝日を浴びて輝いている山肌。今年も来いよ、と読んでいるかのように見えていた。昨年生まれたシロイワヤギの子ども達は無事に越冬をしてくれただろうか。今年も会えるだろうか。そして、今年生まれる子ども達は元気に生まれてくるだろうか。様々な思いがよぎる。
大自然との接点とは、どこにでもあるような気がする。現代の技術が普及する生活環境の中でもみつかる。それはどんなに人間が進歩しても、人間は自然の中に存在する生き物の一つに過ぎないからだ。そういう考えを自然は常に再認識するようにチャンスを与え続けてくれている。
有難きかな。空からの眺めが幸せを呼んでくれる一つの窓口のようにさえ思えてきた。

人工260万人ほどの首都圏のほんの一部をみることができただけなのに、なんだか自分の住んでいるところが小さくみえた。それでも飛行機が西に向かうにつれてロッキー山脈の麓に近づいていくと家の数は少なくなり、麓から山岳部に入っていくと、なんとか大きな道が見える程度になっていく。見下ろしながら、あの道はハイウエイ何番だな、とか分かる。山々が同じような顔つきで見えてくる中でも、ふと目を引く表情があった。それは夏になるとシロイワヤギを撮影に登るマウントエバンス。標高約4300メートルある北米一高い所まで舗装道路が走っている山として知られている。
希薄な空気を思い出させる景色。山頂に向かう道が見えるが真っ白。まだ除雪はされていない。山頂下にあるサミットレークとそれを削りだしている侵食がみてとれる。
朝日を浴びて輝いている山肌。今年も来いよ、と読んでいるかのように見えていた。昨年生まれたシロイワヤギの子ども達は無事に越冬をしてくれただろうか。今年も会えるだろうか。そして、今年生まれる子ども達は元気に生まれてくるだろうか。様々な思いがよぎる。大自然との接点とは、どこにでもあるような気がする。現代の技術が普及する生活環境の中でもみつかる。それはどんなに人間が進歩しても、人間は自然の中に存在する生き物の一つに過ぎないからだ。そういう考えを自然は常に再認識するようにチャンスを与え続けてくれている。
有難きかな。空からの眺めが幸せを呼んでくれる一つの窓口のようにさえ思えてきた。
5月中旬。日本は新緑で山野が溢れるばかりのエネルギーで盛り上がっていることと思います。数週間遅れているように思われるロッキーの自然も少しずつながら初夏に向かって変化をし始めました。そうは言っても大陸性の気候は極端で30℃近く上がったと思ったら翌日は雪が降る、などということも珍しくありません。
仕事の打ち合わせと信頼できる仲間たちとの出会いと再会という有意義な時間を過ごさせて頂き、13日に戻りました。彼らも時間の大切さを感じ、自分たちに与えられたギフトを活かして生きています。何を話しても前向きでプラス思考。これが大きな機動力となり、また各々の人間的な魅力となってあふれ出ています。
昨年知り合った初対面とは思えなかった方との再会は出来ませんでしたが、彼のお蔭で知り合った仲間とは再会できました。今回の出張はきっとそんな中での次なる流れを促すものだったのでしょう。何事も前もって全て明確に提示されてはいませんが、少なくとも物事が前に流れていると信じていると、結局は与えられたチャンスとして具体化してきます。
そうそうLXの後期型の良品を見つけることができました。仲間の一人がカメラ関係の仕事をしているのですが、偶然オークションで見つけてくれました。滅多に見つからない後期型で、しかも程度がかなりよく、整備もされているものでした。早速お願いして譲っていただき持ち帰りました。このLXもほかの仲間たちに仲間入りし今年の砂漠撮影に活躍してくれることと思います。
何事も物事には意味があると思います。それはいいものだけではなく悪いことも含めて、全てが必然的に起こっていると思います。また、そう思うことによって物事を前向きに考えていると、少しずつ自分に与えられたギフトが見えてきます。私もこの年になってやっと分かってきたような気がしています。また写真を通して少しずつ、その流れが具体的なものとなって姿を現し始めました。
一度きりの人生。有難く自分を活かしたいと思います。
仕事の打ち合わせと信頼できる仲間たちとの出会いと再会という有意義な時間を過ごさせて頂き、13日に戻りました。彼らも時間の大切さを感じ、自分たちに与えられたギフトを活かして生きています。何を話しても前向きでプラス思考。これが大きな機動力となり、また各々の人間的な魅力となってあふれ出ています。
昨年知り合った初対面とは思えなかった方との再会は出来ませんでしたが、彼のお蔭で知り合った仲間とは再会できました。今回の出張はきっとそんな中での次なる流れを促すものだったのでしょう。何事も前もって全て明確に提示されてはいませんが、少なくとも物事が前に流れていると信じていると、結局は与えられたチャンスとして具体化してきます。
そうそうLXの後期型の良品を見つけることができました。仲間の一人がカメラ関係の仕事をしているのですが、偶然オークションで見つけてくれました。滅多に見つからない後期型で、しかも程度がかなりよく、整備もされているものでした。早速お願いして譲っていただき持ち帰りました。このLXもほかの仲間たちに仲間入りし今年の砂漠撮影に活躍してくれることと思います。
何事も物事には意味があると思います。それはいいものだけではなく悪いことも含めて、全てが必然的に起こっていると思います。また、そう思うことによって物事を前向きに考えていると、少しずつ自分に与えられたギフトが見えてきます。私もこの年になってやっと分かってきたような気がしています。また写真を通して少しずつ、その流れが具体的なものとなって姿を現し始めました。
一度きりの人生。有難く自分を活かしたいと思います。
今年4月4日に発売になりました写真集「大砂丘の声」が多くの方々の手元に旅立っています。コロラドに持ち帰りました何十冊かもほぼ完売の状態となり、次回の帰国時に第二便として持ち帰る予定となりました。撮影地であるコロラド州モスカのグレイト・サンド・デューンズ国立公園ビジターセンターの在庫も完売となり追加注文の催促を頂いています。英語圏でも徐々に評価が出始めました。地元であるコロラド州内の主要書店への販売契約の話の可能性がでてきました。
ベストセラーになるような題材ではありませんが、自然との繋がりを深いところで感じて頂ける写真集になってもらいたいと願ってる中で、多くのファンや支援の皆さんが輪を広げて下さっています。感謝の気持ちで一杯です。また写真集が写真だけの視覚的な芸術、物語に終わらず、感性や個々の生き方に何かを伝えられるようなメッセージの役割をも果たしてくれたらと願い望んでいます。
まだ発売から一ヶ月経っていませんが、写真集はアメリカ大陸、アジア大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸と世界の五大陸へと旅立つことになりました。これは大変な名誉であり、言葉で表現できない喜びでもあります。
皆さんからの暖かいご支援に、心よりお礼申し上げます。
ベストセラーになるような題材ではありませんが、自然との繋がりを深いところで感じて頂ける写真集になってもらいたいと願ってる中で、多くのファンや支援の皆さんが輪を広げて下さっています。感謝の気持ちで一杯です。また写真集が写真だけの視覚的な芸術、物語に終わらず、感性や個々の生き方に何かを伝えられるようなメッセージの役割をも果たしてくれたらと願い望んでいます。
まだ発売から一ヶ月経っていませんが、写真集はアメリカ大陸、アジア大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸と世界の五大陸へと旅立つことになりました。これは大変な名誉であり、言葉で表現できない喜びでもあります。
皆さんからの暖かいご支援に、心よりお礼申し上げます。

