わらじワールド
コロラド在住の写真家のブログ
写真の芸術としての価値そして文化としての存在
 アメリカで初めて写真をギャラリー展示して販売していると聞くギャラリーに足を運んだ。以前から名前は聞いていたし、近くを通ったことはあったが寄る機会がなかったし、寄る理由がなかった。今まで寄らなかったのは、寄る気がなかったというよりも、どんなところか全く検討もつかずに他のプライオリティーに追われていて心の余裕がなかったというのが正直なところである。

061908GSDsunset2.jpg 昨年写真展を東京と名古屋のフジフォトサロンで開かせて頂き、今年の春に風景写真社から写真集「大砂丘の声」を自費出版することができたが、今日までの様々な経験の中から写真というものに対する考えがかなり強く頑固なものになってきている気がしていた。

 それは写真に対する芸術的な評価というもの。これは技術の発達により「誰にでもできる」ものになっている普遍性というものの影響があるのと、物に恵まれすぎている人間社会に生きる人々の心理的な領域まで入り込んでいるものが原因となっていると思う。写真というものはある程度の知識といいレンズがあれば、ある程度のものは撮れる。

 このギャラリーで開かれていたある写真家の作品は20点前後。ギャラリーのオーナーは年老いた「癖のある」親父だが、銀塩プリント(シルバークロームと表現していた)らしい作品を見ている私を、最初は怪しげにみていた。どこの東洋人(東洋人に見られていたとい前提だが)か、という意味ではなくて、こいつは写真をどうとらえて見ているのか、というような好奇心と疑いを混ぜ合わせたようなものだったと思う。

 最近あるプロが作った最新のデジタル作品があるという。1Mx.5M位の縦型のパネルがあった。絵に見える。写真には見えない、全く違った画像が目の前にあった。写真を撮ったというよりも画像を作ったという感じの見事な鮮明さと鮮やかさが目に刺さるようにして入ってきた。親父が言う。「どうだい、これをみて。」私は正直に言った。「綺麗な作品ですが、私には写真としては受け入れることができません。」

 彼がわずかに微笑んだのが感じられた。どういう意味かは分からない。しかし、私にはその巨大な、45000ドルもかかる大判デジタル機材を投入して「撮影」した作品より、壁一面に飾られているモノクロの作品群、綺麗にアーカイブとして整頓されているモノクロ写真作品の方が魅力的だった。よくみていると、どこかでみたような作品が少なくない。値段はかなりのものになるが、アンセル・アダムス、マイケル・ケナ、そして写真家の名前は分からないな「ライフ」誌に掲載されていた記憶があるとんでもない歴史的なショットの原版(の一枚)である作品があったのに驚いた。

 写真は文化である。それは単に映像を捉えるだけではないからだと思う。その時の状況に含まれるエネルギーや感情、歴史、時には音なども捉えることができる人間の五感+に通じる何かを持っているからだと思う。それら作品が撮影された頃の撮影条件、撮影場所の状況を考えた。いいレンズは当時もあっただろうが、オート機能はなかった。三脚もアルミやカーボン製のものではなく、カメラは重く、レンズは当然重かった。道路状況も今ほどでなく、そこを走る車でさえ今のようなスピードで走れなかったであろう。撮影場所によっては岩場を歩いたかもしれない、砂地を歩いたかもしれない。そんな条件下で捉えた画像には、言葉では表現できない迫力がある。

 私は、写真というものの力というのはその「迫力」であると思う。自然を撮影する場合は大地のエネルギーであり「声」であると思う。それを先人が捉えることができたのは、技術による機材の力だけではなく、撮影者たちのソフトな部分が被写体に通じていたかのように思える説得力のある、しかしながら、技術が隠しうる、我々の潜在的な域に存在する大切なものによると信じている。

 撮影に制約をつけられる。または、制約のある中で撮影をする。この点で考えてみると面白いかもしれない。
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